Vol.16 チャーリー岡村さん(アメリカ)

歌手、美容ディレクター、お父さんの三足の草鞋で大活躍するチャーリー岡村さんは、ご両親が日本人(鹿児島出身)ながら、アメリカで生まれアメリカで育ちました。

そんなチャーリーさんがなぜ日本に住むことになったのか?どんなきっかけがあって歌手を目指すことになったのか? 今回は、そんなチャーリーさんの輝かしいライフストーリーを紐解きます!

 

日本で暮らすきっかけとなった「妻」の存在

「妻に初めて出会ったのは、私がアメリカでホテルマンとして働いていた25歳の時でした。同じホテルで働くスタッフとして元々お互いの存在を知ってはいましたが、ある時、ホテルの廊下で妻に初めて出会いました。気が付くとお互い気軽に話しあう仲になり、正式にお付き合いがスタート。今思い返しても、充実した幸せな日々でした。

しかし、そんな日々も束の間、彼女の日本転勤が決まったのはその矢先のことでした。最初は、短期間の遠距離恋愛ならば、と腹をくくっていましたが、彼女の日本滞在が当初の想定よりもずっと伸びてしまいます。ただ、それは逆に、『覚悟』を決めたきっかけでもありました。

両親が日本人とは言え、彼女と出会う前は、日本に住むという考えすらありませんでしたが、ただただ『彼女と一緒いたい』。その一心で日本に移住することを決めました。」

奥様との馴れ初めを少し照れくさそうに話すチャーリーさん。その柔らかな表情からは、幸せな気持ちが伝わってきます。そしていよいよ、話は初来日当時のことに移ります。

日本語と鹿児島弁、そして驚いたこと

「まもなく日本に暮らし始めて13年になります。振り返ると、本当にあっという間ですね。日本に来る前は、小学校から高校まで週に一回日本語学校に通っていましたが、日本に来た当初は、英語で考えて日本語に訳しながら話すという方法だったので、言いたいことをスムーズに言えませんでした。

あまり一般には知られてはいませんが、50年近く前に鹿児島からアメリカやブラジルへ渡った多くの方々は、今も変わらず当時の鹿児島弁を話されています。私の両親もそうです。なので、日本に来た当初、今まで標準語だと思っていた日本語が日本で通じず、同じ日本語なのになんでわからないの?と思っていたら、実は自分が話しているのが鹿児島弁だった、と後から気づいてびっくりしたこともありました(笑)。

最近、鹿児島出身者だけが参加するClub Houseというオンラインコミュニティに参加したときも、とある参加者からおじいちゃんが話す鹿児島弁だ!』、『聞いたら理解できるけど自分は話せないよ』と言われました。そんなこんなで、最初はすごく苦労しましたが、10数年経った今、ようやく日本語が自然に話せるようになってきた気がします。」

 

チャーリーさんのご両親は鹿児島の中でも分かりづらい鹿児島弁を話されるそうですが、ずっと日本で育った私にはなかなか想像できない特別な体験だなあと感じました。また、多くの鹿児島人でさえも分からない昔の鹿児島弁が、遠く離れたアメリカで未だに話されていることはとても不思議にも思えました。

歌手として

「子どもの頃、父が詩吟や民謡が好きでよく歌ってくれました。その影響もあって、3歳の時には、父の真似をして歌うようになり、5歳で初めてロサンゼルスのステージに立ちました。それからというもの、5歳から高校生になるまでは、ロサンゼルスで日本人歌手のステージがあると、衣装替えの合間には必ず歌わせていただくようになりました。

私にとって、歌うことはもはや生活の一部になりました。高校卒業後は、歌手グループに加入しました。アメリカやヨーロッパなどの世界ツアーに参加したり、アメリカのディズニーランドのお城の前でジュリー・アンドリュースさんと同じステージに立ったこともあります。

日本では、CMソングを歌うことから歌手活動がスタートし、現在は、ソウルバンドのボーカルとしてソロ活動も行っています。マクドナルドやソニーのCM曲など、街中や普段の生活の中で一度は私の歌声を耳にしたことがあるんじゃないかな! プロの歌手のバックコーラスもやりました。以前、JUJUさんのバックコーラスで、SONGSにも出演した時はとても感激しました。

また、卒業シーズンになると、卒業式や謝恩会等で歌を歌ってほしいという依頼を頂きます。以前、息子の保育園の卒園式で、息子が当時大好きだった小錦さん(タレント/元大関)に出演を依頼したところ、小錦さんがウクレレをもって出演して下さったことがあります。小錦さんと私は、計3曲(Over the rainbow/きらきら星/アロハマハロアフイホー)を歌い、おかげさまで、卒園式は大盛り上がりでした。息子自身も、小錦さんが来てくれたことをすごく喜んでいたので、私にとっても大切な思い出となっています。」

*チャーリーさんの美しい歌声を是非ご堪能ください!
*チャーリー岡村さんのインスタグラムはこちら

多くの日本人にとって英語の歌を歌うのは簡単ではありませんが、チャーリーさんによれば、日本語と英語の曲を歌う時の基本的なテクニックは変わらないそうで、驚きでした。

もう一つの顔!美容ディレクターとして

「実はもう一つ、美容専門学校でファッションショーやイベントのディレクターもしています。ディレクターと言っても具体的に何をするのかイメージが尽きにくいと思いますが、いわばステージ全体の管理者です。例えば、ステージ全体の照明、音響、カメラの配置の調整、各担当への指示出し等を行います。

私が裏で歌いつつ、それが曲としてステージで流れていることもあります。いくらリハーサルを重ねても、本番では想定外のことが起こるので、その都度対応していかなければならないことが大変です。ただ、依頼されたイベントのテーマやイメージに沿ったセット、色、音楽などを考え、それらをステージで表現するディレクターという仕事は大好きです。」

今のお仕事を十二分に楽しんでいるチャーリーさんの表情がとても眩しく印象的でした。インタビューも中盤に差し掛かり、徐々にプライベートな話に移ります。

大田区での暮らし

「9年前から大田区の洗足池公園近くに住んでいます。元々は東京の別の所に住んでいましたが、息子が生まれてからは、東京にいながら自然を感じられる場所に引っ越したいと思うようになりました。その点、洗足池周辺は、緑が多く静かな環境でありながらも、電車やバスなどの公共交通機関へのアクセスも充実していて、とても住みやすいです。息子も小学2年生ぐらいから一人で電車に乗って出かけることもできるぐらい、車社会のアメリカと比べると『安全』なことも大きな魅力だと思います。

大田区での活動もしばしば行っています。大田区のスタジオで収録することもありますし、2020年は、羽田空港のLDHカフェで早見優さんと松本伊代さんのクリスマスライブに出演しました。コロナ禍だったので、残念ながらストリーミング配信となってしまいましたが、非常に楽しかったです。今後は、蒲田のライブハウスやアプリコホール等で、ライブイベントがしたいと思っています。」

 

 

 

 

 

早見優さんと松本伊代さんとのクリスマスライブにて

休日の過ごし方

「ここ最近は、いい具合にオンとオフのバランスが良い具合に取れていると感じています。家族との時間でいうと、最近は、12歳になる息子が電車にハマっているので、電車のジオラマ体験が出来る施設に一緒に行って電車を走らせて楽しんでいます。

あと、私自身、ホームセンターがとても好きなので、休日にはよくホームセンターに出かけます。そこで調達した材料を使って棚を作ったり、ちょっとした家具をつくったりして、DIYを楽しんでいます。


それから、最近、盆栽にハマっています。父が庭師なので、もしかするとそのDNAを受け継いだのかもしれません。職業柄、普段はたくさんの人と関わり、音楽に囲まれて賑やかに過ごすことが多いですが、休日は音楽とはかけ離れた静かな盆栽の世界に没頭しています。そんな私の様子を見た息子からは、『また、木と話しているね』とよく言われます(笑) きっと息子も大人になったら私の父から受け継がれたDNAが目覚め、盆栽に興味を持つ日が来るのかな、と思いますね。

一見すると、DIY、盆栽、仕事は何の関係もなさそうですが、よくよく考えると、ゼロから何かを作り出すというクリエイティブな部分が共通しているんですね。頭の中のイメージを、体を使って形にするということが好きなんだと思います。」

インタビュー中のチャーリーさんからは、「つらい」、「大変」といったネガティブな言葉は一切出ることはなく、 言葉の一つひとつや表情からが前向きさが伝わってきます。アメリカと日本の両方の国を知るからこそ、広い視野で物事を考えることができ、そうした姿勢が充実した日々に繋がっているんだろううなと感じました。

いつか歌を聞かせてほしいと密かに願いつつ、1時間のインタビューがあっという間に終わりました。
チャーリーさんのますますの活躍、乞うご期待ください!

「隣の外国人」実行委員 菊地

 

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